【池上彰のニュースそうだったのか!!】土用のうなぎを広めたのは誰?

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「土用の丑の日にうなぎを食べる」という習慣は、日本の夏を象徴する風物詩となっています。
暑い季節にうなぎを食べてスタミナをつけるというこの文化は、現代でも多くの人に親しまれていますが、そもそもこの風習は一体いつ、誰が広めたものなのでしょうか。

テレビや新聞でもたびたび取り上げられるこのテーマには、ある歴史上の人物が深く関わっているという説があります。
今回はその人物と、風習が根付くまでの経緯、そして背景にあった社会や経済の事情について紹介するとともに、その他の説についても詳しく紹介します。

目次

土用の丑の日とうなぎの関係

まずは「土用の丑の日」という言葉の意味について整理しておきましょう。

土用とは何か?

「土用(どよう)」とは、立春・立夏・立秋・立冬の直前の約18日間を指す暦の上の期間です。
特に夏の「土用」が有名ですが、本来は季節ごとにあるものです。
この期間中の「丑の日(十二支のうち“うし”の日)」が「土用の丑の日」です。

なぜ「うなぎ」なのか?

昔から「う」のつく食べ物は暑気払いに良いとされていました。
梅干し、うどん、瓜などもそうですが、特に栄養価の高いうなぎは、滋養強壮に効果があるとされて重宝されました。

とはいえ、夏場にうなぎは売れにくいという時期もありました。
そこに登場するのが、今回の主役となる「ある人物」です。

土用のうなぎを広めたのは誰?――平賀源内のアイデア

土用のうなぎの風習を広めた人物として有力視されているのが、江戸時代の蘭学者・発明家である平賀源内(ひらが・げんない)です。

平賀源内とは何者か?

平賀源内(1728年〜1779年)は、現在の香川県に生まれた博学の士で、医術・化学・本草学(薬草学)・発明・小説・戯作など、さまざまな分野で才能を発揮しました。
いわば、江戸の「万能人」でした。

特に有名なのは「エレキテル(静電気発生装置)」の復元や、『風来山人』名義での戯作作品などです。

うなぎ屋の相談から始まった

一説によれば、夏場にうなぎが売れずに困っていたうなぎ屋の主人が、源内に「どうにか売れる方法はないか」と相談を持ちかけたことが発端だと言われています。

源内は、当時すでに庶民の間で「土用の丑の日には“う”のつくものを食べると夏バテしない」という風習があったことに着目し、これを活用するアイデアを思いつきました。

看板戦略の成功

源内は「本日土用丑の日 うなぎの日」と書かれた張り紙を店の前に掲示させました。
このコピーが功を奏し、うなぎは飛ぶように売れたといいます。

この看板が江戸市中で評判となり、他のうなぎ屋も真似するようになったことで、夏にうなぎを食べる習慣が広まっていったと言われています。

平賀源内説以外の異説

平賀源内が「土用のうなぎ」を広めたとする説は広く知られていますが、いくつかの異説についても紹介しておきます。

土用のうなぎは自然発生的に広まったという説

江戸時代の風習として「丑の日に“う”のつく食べ物」が定着

実は、江戸時代にはすでに「夏の土用の丑の日に“う”のつくものを食べると夏バテしない」という民間信仰が存在していました。
これは陰陽五行思想に由来する考えで、「丑=“う”」の音にちなんで、うなぎのほかにも「うどん」「梅干し」「瓜」などが推奨されていました。

したがって、「土用の丑の日にうなぎを食べる」という行動自体が、源内以前から民間レベルで行われていた可能性もあります。

この考え方では、「平賀源内が広めたのではなく、すでにあった風習を一部の商人が販促にうまく利用した結果、定着した」とされます。

医学的・薬膳的な背景から広まった説

江戸時代の薬学書『和漢三才図会』にすでに記述あり

江戸中期に出版された百科事典『和漢三才図会』(1712年)には、うなぎが栄養豊富で、体力回復に良いとする記述があります。
さらに、「夏にうなぎを食べると体が元気になる」とも書かれています。

これにより、当時の人々が暑さ対策として自然にうなぎを食べるようになったと考えられる説です。
つまり、「栄養学的な観点から自然に広まった」という考え方です。

特に江戸時代は疫病や夏バテによる体調不良も多かったため、滋養のあるうなぎが「薬膳的食材」として注目されたのは自然な流れだとする説です。

商人たちの共同マーケティング説

複数のうなぎ屋が“丑の日セール”として独自に展開

一部の歴史学者の間では、「平賀源内が特定の一店舗を助けた」というエピソードは後付けの逸話であり、実際には当時の複数のうなぎ屋が同時多発的に“土用丑の日セール”を展開していたのではないか、とする説があります。

これは、江戸時代後期に物価の上昇や商業競争が激しくなっていたことから、商人たちが広告や標語を使って販売促進を図っていた背景に基づいた考えです。

特定の人物ではなく、「当時の江戸の商人たちの知恵と工夫の集積として生まれたマーケティング戦略」とするこの説は、現代のマーケティング史の視点からも注目されています。

歌川広重ら浮世絵師の影響説

うなぎの絵や食文化を描いた浮世絵が人気に

江戸後期の浮世絵師・歌川広重や葛飾北斎などが描いた風景画や庶民生活の中に、しばしば「うなぎ屋」の描写が登場します。
特に広重の「名所江戸百景」には、うなぎ屋の軒先や行列、土用の風景が描かれており、視覚的にうなぎ文化を定着させた一因とみなされることもあります。

つまり、視覚的文化として「夏にうなぎを食べる風景」が定着していった可能性もあり、「絵や印刷文化が風習の普及に貢献した」という見方です。

複合説:源内説+民間風習の融合

最後に、近年の歴史研究では「平賀源内説だけがすべてではない」という立場が主流です。
つまり――

  • 「“う”のつく食べ物を食べる民間風習」はすでに存在していた
  • うなぎの栄養価が知られ、薬膳的に好まれていた
  • 源内のような人物が、宣伝の才能で一部の店舗を成功に導いた
  • 江戸の商人たちがその成功例を真似て拡大した
  • 浮世絵など視覚文化が補完的に後押しした

――という、複数の要素が複合的に作用して「土用のうなぎ」という文化が形成されたという説です。

このように、一人の天才の発明というよりも、庶民の知恵と商人の工夫、文化の発展が相まって現在の風習が出来上がったという解釈が、より現実的かもしれません。

「土用のうなぎを広めたのは誰?」まとめ

「土用の丑の日にうなぎを食べる」――この文化には、実に多くの背景と解釈があります。
平賀源内の逸話は確かに魅力的ですが、それだけにとどまらず、江戸庶民の暮らしや知恵、商人のアイデア、文化人の影響など、さまざまな要素が関わっていることがわかります。

現代でも、SNSやテレビCMによって季節の習慣が作られるように、当時もまた多様な力が習慣を育んでいたのです。

「誰が広めたか」という問いは、「どのように広まったか」を考えるきっかけでもあります。
そうした視点で、今年の土用のうなぎを味わってみるのも、また一興かもしれません。

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